感情は不要か?
感情の扱い方。それは、心と身体を結びつけるのに欠かせないキーワード。
私の人生を困難にしてきたものも、また、豊かにしてきたものも、私の感情=感受性の強さにあると感じている。
感情とはなんなのか?
クリパルヨガでは、感覚と感情の違いを認識することが必要だと考えます。
それは、一括りに「フィーリング」と呼ばれる領域に位置するもので、ヨガの実践において、自分自身の奥深くを観ていくためにどちらも欠かせない、体験を深めてくれる大切なツールですが、その違いをなんとなくでも覚えておくと、ヨガの体験が変わってくるかもしれません。
書籍「クリパルヨガ ヨガの実践と人生へのガイド」から
感覚(sensation)
身体の中に存在しているという生々しい肉体的体験のことで、生命とともに息づき、五感を備えています。
それは、空間での身体の位置を知覚したり、動きを感じたり、温感と冷感、緊張と弛緩、重さと軽さなどの違いを察知する能力が含まれます。
また、外界と関連して、映像、音、感触、味、匂いも含まれます。
小脳と脳幹によって仲介される感覚は、私たちの安全と生存に欠かせない基本的なメッセージです。
感情(emotion)
感情は、感覚よりももっと豊かで、さらに深い感覚で、心と体の相互作用によって生まれます。感情の生物的な基盤についてはまだ充分に解明されていませんが、感情が別の部分ー小脳扁桃、視床下部、大脳辺縁系ーで処理され、意思決定や記憶において重要な役割を果たしていることは明らかです。
感情は幅広い重要な情報を伝えます。
感情的になる、という表現があるように、感情の流れはたまにしか起きないのではありません。感情系統は常に機能していて、ムードを支配したり、思いに色づけをしたり、行動をする助けとなる感情的な気分を保っています。
感情は複雑で、時に困惑させます。
ある状況において、相反する感情の間をいったり来たりすることは珍しくありません。
愛する人に心から温かい気持ちを抱いていても、自分の振るまいに激怒するかもしれません。人生の大きな目標を達成して有頂天になっても、さらなる壁が見えて圧倒されるかもしれません。
さらに複雑なことに、ある状況に対する感情と認識とのそれぞれの反応が対立することがあります。思考とフィーリングは様々な方向に分散してしまい、私たちは混乱し、物事を整理する時間が必要になってきます。
ヨガをすると、何事にも巻き込まれず、何も恐れず、何も悲観せず、何にも動揺しなくなるのではないか、そこがゴールなのだろうか、と私自身強く信じ、思ったこともありました。
それは、ヨガの先生であり、実践者であった元夫(今年離婚しています)の影響も強くありました。
彼はいつも何事にも乱されず、冷静で正しい人だった。
私と真逆のその姿に、自分の感受性の強さを恨めしく思ったこともありました。
けれど今は、感情に蓋をし、それを抑圧するようなヨガのやり方に、私は強い疑問を抱いています。
クリパルヨガはまずは身体の感覚に留まりながら、そこで起きている幅広い感情的なメッセージのすべてに耳を傾け、尊重する方法を具体的に示してくれます。
そこで起きている様々な感覚、感情に注意深く気付くことで、自分の身体や心、感情が否定すべき「愚かな獣」ではないことを知ることが出来ます。
感覚や感情は、それをたとえ不快だとその場では感じたとしても、否定されるべきものではなく、自分の人生を真実に向かってガイドしてくれる宝物であることを、私は、声を大にして伝えていきたい。
社会では、抑圧された感情を、抑圧していることにすら気付かずに生きていくことを求められるような気がしています。
または、感情に振り回され、好き勝手に振る舞うことを良しとし、自分を見失うか。
真の健康とはなんなのか。
私がそうであったように、強い感受性に苦しみ、心と体を分離して自分を否定している人たちに、安全に自分の感情と向き合う方法を伝えていきたいと思っています。
それには、まず、器である身体が安定していること。
・・・とても大切なことなので、それはまた改めて書きます。
大人になり母になりましたが、ひとりでヨガをした後、感情が解放され、号泣することがよくある私です。
心が開かれ、感情が純粋なものとして自分の身体に流れるとき、自分の中心には揺るがない愛があり、強くそれと繋がっている、と感じます。
ただ、それも毎回ではないし、日常を生きていると離れていくものです。
それでも良いのです。
特別だけれど、特別なことではない。
繰り返しになるけれど、今の自分に気付いてさえ居れば、まずはそれで良いのだと確信しているから。
皆さんが少しでも穏やかに今日を終えられますように。