karuna yoga

クリパルヨガと、東洋医学と、私

一陽来復

久しぶりの更新です。

11月の末に胃腸炎で救急車に乗って以来、何度も墜落しそうになりながら、なんとか冬至を越えることができました。

 

昨日、22日は冬至でした。

皆さんは、今どのあたりに居るでしょうか?(心身共に)

1年で一番日が短く、陰が極まるこの日、私は娘とほぼ一日、外に出ずゆっくり過ごしました。

 

脾胃に力が入らず、グラウンディングする力の弱さを感じた日々でしたが、冬至を過ぎた今日、午前中のクラスを終える頃には、スタジオの窓から見える光に、春を感じました。

 

一陽来復

・冬が去り、春が来ること。新年が来ること。

・悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方に向かうこと。

 

今日はそんな日かもしれません。

生徒さんから、あたたかなクリスマスのお祝いのお手紙を頂いたり、

久しぶりに連絡をくださる方がいたり、周りで私を支えてくださる方への感謝が溢れてくる日でもありました。

ありがとうございます。

 

私たちは常に変化する自然と無関係では生きていないのだと、身をもって痛感しています。

陰が極まれば、自然と陽がが生じ、また陽が極まれば、陰が生じる。

大切なのは光と影の両サイドがいつも存在することをしっかりと感じ、認識すること、その中で変化し続ける様子を目撃することだと、今日、改めて感じます。

 

 

ヨガは、二元性によって乱される心の波を沈めることを目指します。

その初めの段階として、アーサナ(ポーズ)があります。

アーサナは身体を快適で安定したものにするための実践です。

緊張と弛緩、下と上、右と左、前と後ろ、等々・・・相反するもの同士を利用し、身体を開き、安定させていきます。

良い悪い、正しさや間違い、優れている劣っているかなど、二元性からの解放を目指すからこそ、身体を使って二元性の中で安定し、快適でいられる場所を探していくのです。

さらに、そこに心を集中させ、生命エネルギーであるプラーナを全身に巡らせる呼吸法(プラーナヤーマ)を加えることで、開かれた心身に命を吹き込んでいきます。

 

身体は内と外を繋ぐ役割を常に果たし、私たちが頭で物事を判断し、捉えている世界は、限られた世界だということに気付かせてくれています。

 

私たちは本来、揺れ動く自然の中で、常に変化しながら生きている存在です。

けれど、どんなに揺れ動いても変わらない存在も、同時にそこには存在しています。

変化することを恐れず、変えられないことをそのままにする勇気を持とう。

そして、人生という荒波に乗りながら、その波に委ねていられるよう、今日からもヨガの実践を続けていきたいと思います。

 

ブログを読んでくださっている皆さんも、一陽来復のあたたかなクリスマスをお過ごしください。

 

 

年内のクラスは28日土曜日が最後です。

年明けは4日土曜日から。

木曜午前クラスは、9日、16日に2週連続で行います。

 

1月26日(日)15時から17時、初回者向けのクラスを開催します。

呼吸法にフォーカスしたクラスを予定しています。

 

1月19日(日)中田先生と開催する冬の養生のワークショップも、まだ空きがありますのでぜひ、興味のある方はお気軽にご連絡ください。

✉️ yogaakana@gmail.com

 

 

 

誰でも食堂

毎月、第3土曜日に、市ヶ谷の援助修道会の修道院横のリヒトホールで開かれている、「誰でも食堂」のひとコーナーを利用して、椅子と立位でのクリパルヨガを行なっています。

 


16時から17時までがミサの時間ということもあり、ミサ終わりで毎月参加してくださる方もいらっしゃり、嬉しい限りです。

 

17時から小一時間ほどです。

途中から参加する人もいらっしゃいます。


神様と自分自身とを繋いだミサのあとに、

さらに身体を使うことの喜びを体験し、

そのあとに丁寧に作られたお料理を頂くというこの流れ、とても良い時間だなぁと感じました。

 


私は宗教は持っていませんが、

神様は居るんだなぁと常々感じます。


神のお導きというのは、

自分の身体と繋がってこそ起きる現象ではないかと思うからです。

 

日本人は、宗教に対してネガティブな印象を抱いている人も多いかと思います。

それも、わかります。

私も特定の宗教を持つことに対してオープンなわけではありません。

宗教の内容そのものよりも、自分と内なる神に向かう道に居る人に出逢うと、その智慧に感動します。


修道院という場ですが、宗教がなんであっても、宗教は嫌いでも、持っていなくても、自分でいられる時間として、来てくださると嬉しいです。

 

祈りの場に流れるエネルギーは、ヨガをする上でもとても大切だと感じます。


簡単な動きだけで、身体は素直に反応します。

 


機会があればぜひ💕

 

(することに集中していると、写真を撮る時間がいつもありません。笑)

 

 

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LIFE

最近、よくこの歌を聴いている。

 

懐かしいーー!

ひと昔前のauのCMで話題になった、キマグレンの「LIFE」。

 

https://youtu.be/W_SMjot9kvI

 

 

この歌詞、クリパルヨガだなぁと思う。

 

http://j-lyric.net/artist/a04dab9/l00d86b.html

 

 

 

これを伝えたくて、自分自身として生きたくて、自分自身で愛して愛されたくて、私はヨガをしているんだと思う。

 

少し余談ではあるけれど、私は高校2年で不登校になった経験がある。

理由は様々あったけれど、今振り返って一言で言えば、本当の自分が知りたかったんだと思う。

高校に行かず、ピアノはやっていた。

美術館に行って絵や写真を観たり、ひたすら本を読んでいた。

 

実は、ヨガに出逢うまで、私は身体を動かすことをほとんどしてこなかった。

ピアノを毎日数時間練習することが必須だったこともあり、部活もしていなかったし、球技は指を痛める可能性が高いから、基本的に参加もしていなかった。

 

24歳でヨガと出逢うまでの私は、ヨガと出逢ってからもしばらく、時々気が狂ったかのように、40キロくらいひたすら歩いたりしていた。

5.6キロなら日常茶飯事。

その始まりは、不登校になった高2の頃。

2学期の始業式がある9月1日、朝学校に行こうと町田の家を出て、そのまま横浜駅までサンダルで歩いたのがスタートだった。

(高校は私服だったから)

まぁとにかく暑かったし、

夕方帰って両親にそれを話したら、母は悲しくて泣き、父は「よくやった!」と褒めてくれたことを憶えている。

 

今思えば、身体を使って激しく揺れ動くマインドを止めたかったんだと思う。

好きな音楽とiPodがあればどこまでも歩ける気がしていた。

 

 

このLIFEという曲、2008年だから、ちょうど私がクリパルヨガを始めて少しした頃。

この曲を聴きながら、当時渋谷にあったクリパルのスタジオから、世田谷街道を町田までひたすら歩いて帰ったこともあった様に振り返る。

 

MY LIFE,

SO ALIVE,

FEEL IT INSIDE 


DON'T HIDE, DON'T CRY, HERE I COME

 

 歌い出しのコーラスのバックで囁かれるこのフレーズ、たまらない。


ひたすら歩きながら、

私は誰で、何のために生まれてきたのかって、いつもバカみたいに問い続けていた。

それを知るためのツールを、ヨガは与えてくれた。

 

 

愛、自由、希望 胸にそっと懐かせて
この世に君は生まれてきた
生きる意味探す旅を 日々君続けるよ
命 運ぶ方へ 進めこのLIFE

 

 

生きる意味を探すって

本当にありとあらゆるところで言われることだけれど、

何かにならないと、自分以外の誰かにならないと、それが得られないわけではない。

誰でも、自分が自分として生きてきた体験からくる生きる意味を既に持っている。

 

白と黒ではない、グラデーションに身を置くことを自分に許そう。

私たちの身体の内側にはそのスペースがちゃんとある。

ひと呼吸ひと呼吸、その色を丁寧に増やしていこう。

その色は、私たちの意識であり、慈しみという名のだと私は感じている。

 

そして、

愛というのは、決してなにか平和でどこか遠くにある超越的なものではなくて、

何か特定の対象に限定されるものでもなくて、

搔き消したくなるような想いや、痛み、苦しみ、心を震わせる喜びや幸福、悲しみ、全てとともにあるもの。

全てが移り変わり、いずれ無くなるという悲しみを包み込むもの。

慈しみ。

その存在そのものだと、今日、改めて強く感じた。

 

ひと呼吸ずつ心と身体を開き、

自分の身体のスペースを、そんな、愛という意識でいっぱいにしよう。

それがマインドフルネスなんだと私は感じている。

 

 

心身を開き、気付きと愛がそこに在るとき、

癒しが起き、変容のプロセスはスタートする。

 

Hey you!

Don't give up before you try it

 

 

だって。

本当にね! 

私も本当にまだまだ、途中。

歩き始めたばかり。

 

一緒に歩こう。

 

 

 

off the mat (人生こそが本番)

池袋で漢方&クリパルヨガのクラスをスタートさせて、2ヶ月が経ちました。

体験会からは、早4ヶ月。

通い続けてくださる方、足を運んでくださる方に心から感謝でいっぱいです。

 

このひと月ほどは、心身ともに私がエッジに留まり続けていました。

(クリパルヨガのエッジの概念については、また改めて書きます。)

 

本当に苦しく、限界だと思われるときに自分を助けてくれるものは、そばに居てくれるひとであり、大好きな音楽であり、娘の存在であるのだけれど、

何よりも、いつでも今ここにある全てを受け取って歩んでいける自分のあり方であるような気がとてもした、長い長いひと月でした。

その間、私は私を生きる体験を放棄しなかったし、常にそこに寄り添っていたように振り返ります。

 

ヨガが、私を助けてくれた。

正確には、ヨガで身につけてきたいろんな要素が、私を助けてくれたと強く感じました。

 

正解は誰も教えてくれない。

自分のなかにあるものを信じて、この人生を探求していくしかない。

 

さて。

あなたは、なんのためにヨガをしているのだろう?

身体を柔らかくしたいから?ダイエットしたいから?不調を治したいから?

 

クリパルヨガが目指すことは、マットの上でのヨガの練習での気付きを、日常を生きるヒントとして相互にリンクさせていくことにあります。

 

なぜなら、人生こそが本番だから。

 

ヨガマットの上で起きていることを日常とリンクさせるために必要なのは、マットの上で何に気づき、何を感じ、何が起きているのかに気付いている在り方を身につけることなのだと思う。

判断のない気付きを自分に向け、エッジの中で自分の可能性を開き、リラックスして目の前で起きていることを体験し続けること。

そして、その在り方を、ある程度習慣化すること。

慣れ親しんだ感覚やものに執着にするわけでも、慣れ親しんでいない不快感を払いのけるのでもなく。

今、多くのヨガは実践が目的になり、正しく奇抜なポーズを綺麗に取り、正しい呼吸をすることが目的になり、体験することが不足しています。

マットの上では素晴らしく優れていたとしても、ひとたびマットから離れると心と身体がバラバラのままで生きているという、ヨガの先生や生徒さんは少なくないように思います。

 

大切なことは、ヨガの練習が正しいか、その実践が正確なのかどうかではないのです。

繰り返しますが、人生こそが本番なのだから。

 

最近、クラスに通ってくださる生徒さん一人一人が、日常での自分の在り方と、ヨガクラスでの在り方のリンクに気づき始めていることを、シェアリングを通して感じます。

その姿に、私自身が何度勇気づけられたことかわかりません。

 

自分を丸ごと抱きしめて、寄り添って、苦しみの中にあっても光を見出し、一歩を踏み出していく智慧を、本来誰もが持っています。

 

苦しみや痛み、悲しみや不調のない人生が素晴らしいのか。

それさえなければ幸せなのか。

私は、そうではないと強く思う。

それらの排除したくなるような苦しみの中にも、大切な真実の自分自身がいる。

治る、とはなんなのか。

私は、自分自身になることだと思っているし、そう確信してヨガをし、伝えています。

 

慈しみをもって、自己観察をし続ける。

意図を持ってヨガマットの上に立ったら、強い意志で自分を観察し続ける。

呼吸と動きと、身体感覚を体験し続ける。

 

いつでも、今ここから始める。

意図を持って体験し続けたら、必要なことは全て起きると信じ、委ねる、、

 

今に存在し続けるためには安定した身体という「器」「土台」が必要です。

 

そのために、中田英之先生の黄色いチラシ=養生の実践があるのだと、私は考えています。

 

不調を感じたときほど、そこに戻り、また歩いて行きましょう。

 

そして、ヨガマットの上で自分自身でヨガをする習慣を、少しでも意識していきましょう。

 

必ず、自分自身が自分を勇気づけて、助けてくれるから。

 

長く感じた2019年の梅雨が終わり、そう感じてます。

 

 

 

眠いので・・・そろそろ寝ますzzz

 

 

 

 

 

 

感情は不要か?

感情の扱い方。それは、心と身体を結びつけるのに欠かせないキーワード。

 

私の人生を困難にしてきたものも、また、豊かにしてきたものも、私の感情=感受性の強さにあると感じている。

 

感情とはなんなのか?

クリパルヨガでは、感覚と感情の違いを認識することが必要だと考えます。

それは、一括りに「フィーリング」と呼ばれる領域に位置するもので、ヨガの実践において、自分自身の奥深くを観ていくためにどちらも欠かせない、体験を深めてくれる大切なツールですが、その違いをなんとなくでも覚えておくと、ヨガの体験が変わってくるかもしれません。

 

 

書籍「クリパルヨガ ヨガの実践と人生へのガイド」から

 

感覚(sensation)

身体の中に存在しているという生々しい肉体的体験のことで、生命とともに息づき、五感を備えています。

それは、空間での身体の位置を知覚したり、動きを感じたり、温感と冷感、緊張と弛緩、重さと軽さなどの違いを察知する能力が含まれます。

また、外界と関連して、映像、音、感触、味、匂いも含まれます。

小脳と脳幹によって仲介される感覚は、私たちの安全と生存に欠かせない基本的なメッセージです。

 

感情(emotion)

感情は、感覚よりももっと豊かで、さらに深い感覚で、心と体の相互作用によって生まれます。感情の生物的な基盤についてはまだ充分に解明されていませんが、感情が別の部分ー小脳扁桃視床下部大脳辺縁系ーで処理され、意思決定や記憶において重要な役割を果たしていることは明らかです。

感情は幅広い重要な情報を伝えます。

感情的になる、という表現があるように、感情の流れはたまにしか起きないのではありません。感情系統は常に機能していて、ムードを支配したり、思いに色づけをしたり、行動をする助けとなる感情的な気分を保っています。

感情は複雑で、時に困惑させます。

ある状況において、相反する感情の間をいったり来たりすることは珍しくありません。

愛する人に心から温かい気持ちを抱いていても、自分の振るまいに激怒するかもしれません。人生の大きな目標を達成して有頂天になっても、さらなる壁が見えて圧倒されるかもしれません。

さらに複雑なことに、ある状況に対する感情と認識とのそれぞれの反応が対立することがあります。思考とフィーリングは様々な方向に分散してしまい、私たちは混乱し、物事を整理する時間が必要になってきます。

 

 

ヨガをすると、何事にも巻き込まれず、何も恐れず、何も悲観せず、何にも動揺しなくなるのではないか、そこがゴールなのだろうか、と私自身強く信じ、思ったこともありました。

それは、ヨガの先生であり、実践者であった元夫(今年離婚しています)の影響も強くありました。

彼はいつも何事にも乱されず、冷静で正しい人だった。

私と真逆のその姿に、自分の感受性の強さを恨めしく思ったこともありました。

 

けれど今は、感情に蓋をし、それを抑圧するようなヨガのやり方に、私は強い疑問を抱いています。

クリパルヨガはまずは身体の感覚に留まりながら、そこで起きている幅広い感情的なメッセージのすべてに耳を傾け、尊重する方法を具体的に示してくれます。

そこで起きている様々な感覚、感情に注意深く気付くことで、自分の身体や心、感情が否定すべき「愚かな獣」ではないことを知ることが出来ます。

 

感覚や感情は、それをたとえ不快だとその場では感じたとしても、否定されるべきものではなく、自分の人生を真実に向かってガイドしてくれる宝物であることを、私は、声を大にして伝えていきたい。

 

社会では、抑圧された感情を、抑圧していることにすら気付かずに生きていくことを求められるような気がしています。

または、感情に振り回され、好き勝手に振る舞うことを良しとし、自分を見失うか。

 

真の健康とはなんなのか。

 

私がそうであったように、強い感受性に苦しみ、心と体を分離して自分を否定している人たちに、安全に自分の感情と向き合う方法を伝えていきたいと思っています。

 

それには、まず、器である身体が安定していること。

・・・とても大切なことなので、それはまた改めて書きます。

 

 

大人になり母になりましたが、ひとりでヨガをした後、感情が解放され、号泣することがよくある私です。

心が開かれ、感情が純粋なものとして自分の身体に流れるとき、自分の中心には揺るがない愛があり、強くそれと繋がっている、と感じます。

ただ、それも毎回ではないし、日常を生きていると離れていくものです。

それでも良いのです。

特別だけれど、特別なことではない。

繰り返しになるけれど、今の自分に気付いてさえ居れば、まずはそれで良いのだと確信しているから。

 

皆さんが少しでも穏やかに今日を終えられますように。

 

ジャーナル

今日のヨガ。

 

ある出来事があって、身体の調子がなかなか戻らず下腹部に痛みがあるため、大きな動きは出来ない。

痛みがある故に自分の身体を否定し、否定するからまた、痛む。

その悪循環の中に居ることは感じている。

 

こういうとき、黄色いチラシ(中田英之先生監修の養生の基本)の実践が何より役立つことも、体験から理解している。

けれど、調子の悪いときに限って、身体は悪いものを欲しがる。

 

コンビニでビールが私を呼んでいる・・・のをなんとか振り払い、

家の冷蔵庫で白ワインがおいしそうに冷えている・・・のも、なんとか振り払う。

(結局私を誘惑するものの多くは、お酒であることに改めて気付かされる)

 

娘を寝かしつけ、重い身体でヨガマットを敷く。

まずはモードを作るためにイヤホンをして、大好きな音楽を聴く。

仰向けでゆっくり股関節を回したり、広げたり、足を上げてストレッチしたり、

完全呼吸で脇腹を緩めたりしてみる。

次第に、身体を感じることだけに集中していれば良いのだという喜びを感じてくる。

ただ、ここにある感覚だけ。何も意味づけは必要ない。

 

テーブルポジションから、ゆっくり骨盤を回し、股関節を回してみる。

熱とともにプラーナ(気)が起きてくるのを瞬時に感じる。

この、スペース、そこから生まれる熱とプラーナ、痛みと緊張、弛緩、小さな命の揺らぎだけが、私そのものなのだ、と気付きがやってきた。

 

いろいろなストーリーが私を作り、私について語ろうとする。

たくさんの理由が痛みの中に存在し、善し悪しの判断をしようとする。

明日の仕事への不安を語り、出来ないかもしれないことを想像し、言い訳をしたがる。

 

 

そのストーリーに巻き込まれない。

出来るだけ優しく、今身体で起きている感覚や呼吸へ意識を戻してくる。

そして、

私はどうありたいのか?

改めて自分に問いかけてみる。

 

スペースを感じていたい。

身体の中にも、心の中にも、内と外の間にも。

世界と私とを隔てるものはなにもないことに一瞬で気付かせてくれる。

ここに居たい。安全な私でありたい。

 

そのために何が出来るのか?

基本に戻ること。

養生を実践して、器を作ること。

そして、ヨガをして、何度でもまたこの安全な場所に戻ってくること。

 

 

皆さん既にお気づきのように、本当に誰よりも私がこのヨガと、養生の実践を必要としています。

だから、ヨガを教えています。。。

 

人生は、私たちに完璧であることを求めてはいません。

今この瞬間の、そのままの自分に気付いていることなのだと、改めて痛感します。

 

皆さんが、少しでも穏やかに眠れますように。

今日もお疲れ様でした。

 

(ジャーナルはこんな風に、なんでも有りです。良かったらご参考まで♡)

 

 

akana

 

 

ブログ

やっと重い腰を上げ、ブログを開設しました。

 

誰にとってもそうであるかもしれないけれど、人生が大きく動いているときだからこそ、自分の体験を言葉にすることの難しさを感じてきました。

特に、2年半前に線維筋痛症になってからの私の人生は、それまであったことの全てを明らかにする道のりで、未だにそれが続いていると強く感じているからです。

 

ひとつなにかをクリアしたと思っても、次から次へと明らかにするべき課題がやって来る。

人生の波に乗り続けるために、私が今できることを選択していきたいです。

 

呼吸して

リラックスして

感じて

観て

委ねて

 

本当の自分に近づきたい。愛する人を愛したい。

全ての変化するものとともにある、私の中の真実である愛と繋がっていたい。

ともすればすぐにそこから離れてしまう私の弱さを優しく受け入れつつ、いつでも、また、今ここから始めて行きたい。

だから、私はヨガをしています。

 

クリパルヨガ教師としての人生を選んだ今、また、少しずつ言葉にしていきたいと思います。

 

ヨガについて、人生について、日常の気付きなども。

 

こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします。

(ちなみに、足湯しながらこれを書いています。笑)

 

 

akana